過去の御言


2012年12月30日 宋ヨンソプ総会長 インターネット礼拝

2012年12月23日 題目「私たちのクリスマス」

2012年12月16日 原理復興会 祝福結婚への招待「真の家庭を目指して」

2012年12月9日 基元節勝利のための連合礼拝

2012年12月2日 題目「頂から約束の地が見えた」

2012年11月25日 原理復興会 祝福結婚への招待「真の家庭を目指して」

2012年11月11日 題目「千年王国の建設」

2012年11月4日 題目「神様の理想世界と平和理想世界王国」

2012年10月28日 ビデオ礼拝 @真の父母様の動静A真のお父様の日本語の             御言B天命(歌)より万寿無彊の願い、栄光の冕旒冠

2012年10月21日 原理復興会「人類の救世主文鮮明先生の偉大なる生涯」

2012年10月14日 題目「前進的一日と正午定着」
              全柱奉地区長をお迎えしました。

2012年10月7日 題目「全て成し私の懐に帰って来なさい」

2012年9月30日 題目「真のお母様と共に新しい出発をする時」

2012年9月23日 宋ヨンソプ総会長「原理大復興会」

2012年9月16日 「文鮮明天地人真の父母天宙聖和式」映像ダイジェスト

2012年9月9日 題目「天地人真の父母天宙聖和式参加報告」


2012年8月26日 題目「無形の真の父母と実体の真の父母」

2012年7月15日 題目「神様が直接働かれる時代」

ヨブ記に見る神 (2011年夏季牧会者説教集に掲載された説教です)


世界会長の文亨進様は私たちに聖書を読みなさい、賛美歌を歌いなさいとおっしゃいます。真のお父様も最初は聖書講義から出発されました。

私たちはキリスト教の土台に立つ統一教会であるといえます。クリスチャンが超えていった心情圏を凌駕して行かない限り、クリスチャンは屈服しないでしょう。十字架が神の予定でなく、人間の不信仰であるという内容はクリスチャンから見ればイエス様を否定されたように感ずるし、受け入れがたい内容に思えます。

イエス様がどのような心情を持って歩まれたか、2000年間人類に影響を与え続けてきたキリスト教であり、聖霊体験をしているクリスチャンであります。2000年前に亡くなられたイエス様が、今現在生きているこの私の罪のために十字架に架かられたのであり、クリスチャンに「あなたは救われましたか?」と尋ねれば「もちろん救われました。」という答えが返ってきます。「いつ救われましたか?」といえば、「十字架上で救われました。」と返ってきます。クリスチャンは明確な救いの実感を持っています。

真の御父母様がそのイエス様の心情を感じ、悟った世界が何であるかを亨進様が尋ねて悟った時、真の御父母様は「ついに、ついに悟ったんだね」と言われ、亨進様を泣きながら抱きかかえられたという話を聞きました。

私たちはクリスチャンが超えた世界と連結するには、聖書の内容を土台としていくことが必要です。

新約聖書の少なくとも四福音書および使徒行伝まではしっかりと読みこなしてほしいと思います。旧約聖書は過去の中心人物の歩みに照準を合わせて見て行くと、私たちの歩み方が明確になってきます。

今日は、難解とされているヨブ記の話をしたいと思います。

ヨブというとてつもない信仰者がいました。人となりは正しく、神を恐れ、悪に遠ざかったとあります。このヨブをめぐって神とサタンが口論します。

神様はヨブを誇り、ヨブに絶対的な信頼を寄せています。しかしサタンは、「神様いたずらにヨブは神を恐れるんじゃありませんよ。あなたは彼とその家や、所有物に間垣を設けられたじゃありませんか。垣根を作ってヨブを繁栄させて来たじゃありませんか。今それらすべてを彼から奪ってみてください。彼は必ずあなたを呪うはずですから。」と試練します。神様は「わかったそのようにしよう、ただし彼の体だけは打たないでくれ。」といい、実際ヨブから全てのものが奪われました。万物、僕たちそして子供たちまで。

この時ヨブは、「私は、裸で母の胎を出たのだから、裸で帰ろう。」といい、そのヨブを神様は誇ります。ヨブのような立派な信仰者はいないだろうと。

その時またサタンは言います。「お言葉を返すようですが、あなたはまだ、彼の体を打っていないじゃないですか。体を打てばきっと彼は神様を呪いますよ。」と。

神様は「わかった、体を打ってもいい、しかし命だけはいかしておいてくれ、後はどの様にしてもいい。」と答えます。

そうして、全身、腫れ物だらけ、膿だらけの体となり、陶器のかけらで体をかきむしり、灰の中に座るヨブに、妻も「あなたは神様を呪って死になさい。」といいます。この時ヨブは、「我々は神様から幸いを受けたのだから災いをも、受けよう。」といいます。ここまでくると私たちは、ああ自分には無理だなあと思ってしまうかもしれません。

サタンというのは、私たちが、神様を呪うこと、神は当てにならない神なんだという心を私たちの中に起こさせるのがサタン。神を呪わせるのがサタンです。

ヨブの話はこれ以降が本質的話なのです。

3人の友達がやって来ます。その友達はヨブのために一緒に泣いてあげる友達、7日7夜一緒に悩んであげる友達です。尋常な友達ではありません。その友達がヨブに言いました。「このようなことが起こるということはきっとあなたが神に対して何か悪いことをしたからです。」とヨブを説得しにかかりました。神様はやたらに人を傷つけることはないよ、こういうことが起こるということは、あなたが神様に何か罪を犯したんじゃないか、あなたの中に非があったんじゃないのかというのです。友達は因果応報の話をしているのです。ヨブの話は因果応報に対する挑戦でもあります。

信仰と信心は違います。まったく違うわけではありませんが、信心とは自分の願ったこと、願望がかなうことの期待、いわばご利益的なところがあるといえますが、信仰とはいいことも悪いことも受け入れていく、災いにあっても神を信じて仰いでいくのが信仰です。ヨブも最初はどうしてこんなことになったんだ、どうしてこんな目に遭わないといけないんだと思いました。私たちも何で自分だけが、何でこうなんだと思うことがあります。

ヨハネによる福音書9章1節に生まれつきの盲人の話が出てきます。イエス様に弟子たちが聞いています。


「先生、この人が生まれつき盲人なのは、本人の罪ですか、それとも両親の罪ですか。」と。そのときのイエスの答えは「本人でも、両親でもない。ただ神の御業がこの者の上に現れるためである。」というものでした。私たちはよくバチ論を口にします。因縁を口にします。もちろん、物事を意味あることとして捉えていく姿勢は必要です。もう一度私たちが本質的に物事を捉えていくことが願われているのではないかと考えます。統一教会が本質的に変わらなければいけない、因縁霊界から脱却しなければいけないのではないでしょうか。

ヨブの問題は、罪を犯したから神がヨブをそのような立場に置いたのではないと言う事を私たちに教えています。神様は、罪を犯したからそのような境遇にヨブを送ったのではないのです。ヨブの苦しみは罪故じゃないんです。罪に対する神の罰ではないのです。

神が神である、ただそれだけの理由で私たちは神を愛し、賛美していくのです。3人の友達は神について語っているのです。ヨブは神について語っているのではなく、神に向かって語っているのです。私たちは神という言葉をあらゆるところで使っています。しかし、本当に神に向かって語っているでしょうか。悩みも、苦しみも、うらみも、つらみも神に向かって語ればそれは祈りとなるのです。なぜこんな目に遭わなければいけないんだ、と思う私たちは、もう一度神に向かって語っている私になっているかを見つめていきましょう。

ヨブの話の最後には沈黙していた神がすさまじい波動を持って現れます。


「無知の言葉を持って神のはかりごとを汚すこの者はだれか。」これはヨブの悩みに対する答えではありません。神はヨブの悩みにまったく答えていないのです。

神のことばは、

「お前はいったい何者なんだ。」

「お前は知っているというけれど何を知っているんだ。」

「何も知らないじゃないか。」

「お前は私に造られたものじゃないか。」

「岩間のヤギが子を産むときを知っているのか。」

「雌鹿が子を産むのを見たことがあるのか。」

「海の源に行ったことがあるのか。」

「私が地の基をすえた時、お前はどこにいたのか。」

「もし知っているなら言え。」

本当にお前は知っているのかということばでした。その時ヨブは私は何も知らなかったんだ、と悟り「今まで私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今私は目であなたを見ています。」といいます。私たちは、目をもって神様を見ていますか。

ヨブの話は、いいことをすれば必ず報われるという話ではないのです。常に神が自分の中にある私となっているか。お前はいったい何者なんだという神様の問いかけに答えられている私になっているのか。

神が神であるという理由だけで信仰していく。お父様もそうです。興南に行くときも、ダンベリーに行くときも「何でこうなんだ」とは思わない。「いつここから出られるか。」という事すら思わない。ただ一心不乱に神の前に精誠だけ尽くしていこう。このことにより真の御父母様は摂理を開いて来ました。

私たち自身が変わらないといけない。

天福宮の奉献式のとき、お父様は朴普煕先生に「お前はいったい何者なんだ。」「私の息子なのか、友達なのか。何なんだ。」とおっしゃり「息子です。」と答えた朴先生に対して「息子なら私に似てないといけないじゃないか。」「何で似てないんだ。」とおっしゃり、「いつまで息子なんだ。一週間か。」朴先生は「一生息子です。」と答えられました。

私たちは教会長という名前で天国に行くわけじゃない。息子、娘という名前だけを持って天国に行くんですと、亨進様も語られ、すべては流れる雲です、絶対なのは真の父母様だけですとおっしゃられます。

私が何者であるかという事をはっきりと知る私たちとなり、新しい時代にふさわしい歩みをするものとなって行きましょう。

ありがとうございました。