トップページ > 礼拝のみ言 > 2013年8月11日

2013年8月11日 題目「」 許満亮教会長


本文のみ言 聖書、世界経典U


第3部 人生の旅程  第13章 愛

 福の中の最高の福は何かというと、犠牲的な愛、奉仕的な愛、人の「ために生きる」愛を施すことです。(43-309、1971.5.2)

 誰もが、老若男女を問わず、愛をみな望むでしょう?何の愛ですか。ために生きる愛です!「ために生きなさい」と言う愛ではありません。「ために生きる」愛を望むのです。(211-207、1990.12.30)

 自分を中心として愛されようと考えるなというのです。愛そうという立場に立っているのが神様の心です。愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が100億あって、道端に出ていってすべて分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。(133-180、1984.7.10)

 神様の愛は、どのような愛ですか。与えて満足するものではなく、与えてももっと与えたいと思って恥ずかしさを感じる心をもつ愛です。与えてから恥ずかしい心を感じる人ほど、本当の愛の主人です。父母は子女に服を着せても、もっと良い服を着せることができずに済まないと思うのです。与えながらも、満足を感じるのではなく不足さを感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。したがって、与えても満足しないのですが、完全なものとして報いてくるのが愛です。愛すれば愛するほど、もっと大きなもので補われるので、滅びるのではなく、栄えるのです。ですから、愛なくしては栄える道理がありません。愛なくしては、永生はないというのです。(38-327〜328、1971.1.8)

 愛の本質は何ですか。人のために生きようとすることです。自分の自主的な本質を中心として、人に与えようとすることが愛の本質です。その愛はどこから来たのですか。天から来たのです。神様は絶対的な愛の主体なので、与えようとするのが愛の本質です。父母が涙を流し、「私の愛が不足だからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と思いながら、その子女の骨髄が溶け出るほど涙を流し、より大きな愛をもって子女の前に出て行くときに、その子女はどのようになりますか。振り返るのです。もっと大きな愛は弱い愛をすべて消化、統合させ得る力をもつのです。(48-182〜183、1971.9.12)

 神様は、なぜために存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら100パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに50パーセントはポケットに入れて、50パーセントだけ報いたいですか。それとも、ありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心がどのように作用しますか。誰でも、より多く報いたいのが本心です。
 
 ここで通訳しているミスター朴に対して、私がもし100パーセントそのようなものを与えたら、与えるにおいても、心から愛する中でくれたことを知れば、100パーセント以上を返そうとするのです。100パーセントが110パーセントになって返ってくるし、その100パーセントが返ってきたのは、また向こうが心からくれたので120パーセントを返すようになり・・・・。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
 
 2番目は何ですか。皆さんの家庭においても、5人の家族がいて、誰かがその5人の家族のために生きれば、あとでそのために生きていた人がその家族の中心になるのです。ちょうど神様のように・・・・。そのような中心が決定されると同時に、主体と対象、中心と相対関係において自ら志願する主管圏が生じるようになるのです。絶対的に「ために生きる」その主体に主管されるのがどれほど幸福かということを、今日の人間たちは知らずに生きています。霊界に行けば、神様の直接主管を受けることがどれほど大きな栄光かわかりません。このように、ここで初めて主従関係が成立するのです。
 
 3番目は何ですか。理想と愛は人間において生命よりもっと貴いものであるにもかかわらず、今日の人間たちは、このようなものが自分のものとして、自分に現われると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのですか。対象から来るのです。対象から来るので「ために生きる」法度を立てざるを得ません。知恵の王であられる神様は、このようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないことを、今、皆さんは分かっただろうと信じます。(73-326〜327、1974.10.8)



                        戻る





reihai20120715.htmlへのリンク