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2013年7月7日 題目「真の愛を中心とした人生行路」
   
許満亮教会長

                      

本文のみ言 「新天聖経:第三篇真の愛」 2節 真の愛の実践(342〜344P)

1 神様の愛の本質と和合できる内容を持たずしては、善が成り立つことはできません。愛は、自己の主体的な立場を強調することではありません。対象的立場を強調することです。‘私’を強調しては行くことのできない道です。私一人で孤独単身になっては、国の主人になることはできません。必ず、相対的価値を決定付けなければなりません。男性と女性は家庭の中で公認を受けることのできる人にならなければなりません。これが、理想天国においての組織の根本思想であります。男性が女性の前に、絶対的な公認を受けることができなければ、理想世界では絶対的な公認を受けることはできません。一人の女性の前で世界的な価値の公認を受けることができない男性が、世界的価値の世界を迎えようとするのは矛盾であります。そのような価値の世界を堂々と迎えるにおいて、不足のないそのような方、そのような家庭の主人公にならなければなりません。そのような家庭は二つではなく一つです。その家庭は主体になり犠牲と克服の生活をしなければなりません。その目的は自己に置くのではなく、相対に置くのです。

2 愛の道は、このようにあのように(ジグザグ)行く道ではありません。一つの道しかありません。愛の道は二つですか、一つですか。一つの道です。唯、一筋の道だけを行けば、通じないところがありません。愛の道は静粛な道であり、静かな道であり、司祭たちが祭祀を捧げる瞬間を経て行くような厳かで注意深い道であります。

3 人間の生命というのは、愛の理想を中心として宿ったものなので、人間生命の本質は愛であります。故に、愛を本質にして生まれた生命は、神様と同様に‘ために生きる生’を生きなければならないのが天理原則であります。ですので、人間は真の愛のために生まれた存在だということができるのです。創造本然の人間は、その心と体に神様の愛を持って、そのまま感応しながら生きるようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様と感応し、体は自動的に心に共鳴するのです。体と心が闘わない真(しん)の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感するところにあるのです。

4 神の愛は天の国に現れるものではありません。万宇宙と存在世界の前に現れ、人間の前に現れなければなりません。父母の愛も子女の前に現れるのです。夫の愛は妻の前に現れ、妻の愛は夫の前に現れるのです。それが、愛の公約であり、愛が進み行く方向なのです。その道を従わずしては、愛を成すことはできないのです。

6 愛の道は自己のための道ではなく、自己を犠牲にする道です。愛する人の一言を聞いたら、10年の苦労も克服することができます。それは、驚くべきことです。愛する夫、愛する妻と約束した一言を中心として10年、いや一生の間も克服することができるのです。克服する過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であればあるほど、約束された内容の愛は、より次元の高い立体性を持つようになります。

8 人間は神様が願う愛の道を尋ねて行かなければなりません。悪魔が願う堕落の道を否定し、神様が願われる愛の道を尋ねて行ってこそ、悪魔が分立されていきます。知識があるとして、教理をもっと知っているとして、手腕が良いとして、智慧があったとして分立されるのではありません。愛が無ければなりません。キリスト教が今日まで残ることができたのは、犠牲の道を歩んで来たからです。血を流して来たので残ることができたのです。

9 愛の道は利用される道であります。より大きなところに向かって利用される道であります。個人は家庭の前に利用されようとし、家庭を率いて国に入って利用されようとする道なのです。世界を率いて行って天地の前に利用されようとし、天地を率いて入って、神様の前に利用されようとする道が真の愛の道なのです。



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