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2013年6月2日 題目「伝道者の姿勢」 許満亮教会長

本文のみ言 「牧会者の道」から

第4章:教会発展と伝道
3 熱意がなければならない

 人間は誰でも、熱意をもつ人にあこがれるものです。熱意をもって直行しようとする人は、行く手に冒険が加重されてきても、それを打破できるものです。しかし、熱意がない努力は、中断されやすいものです。ですから、前進を願う私たちにおいて一番必要なものは、私自身がどのようにして連続的に前進できる熱意の補給を受けるかが問題です。熱意がなければ刺激を受けられないのです。また熱意のない刺激は、必要がないのです。強い刺激は強い熱意によって因縁づけられるという事実を考えるとき、熱意に満ちた環境、熱意にみなぎる個体、熱意にみなぎる相対を追求しなければならないのです。完成された人格、無限な人格を追求する私たち人間には、無限な熱意がなくては駄目なのです。無限な人格を追求できる私たち自身を見るとき、いつでも連続的にその熱意を追求できる自分自身になっているのか、そうでないなら、そのような熱意をもって目的を達成させようとする私自身になっているのかが重要な問題です。このような二つの立場のうち、どちらか一つの立場を成さずには、完成された人格を追及することはできないのです。

 それでは、私たちが神様の熱意の補給を受けるために必要なものとは何でしょうか。神様は純粋ですから、私たち自身も純粋でなければなりません。・・・
 それでは、熱意を誘発させ得る、その動機とは何でしょうか。それは、純粋でなければなりません。邪悪なものがあってはなりません。百が入ってきたら、百として純粋に反映させられなければなりません。これが問題になるのです。また、その熱意というものは、どこから発生するのでしょうか。純粋なものを基盤にして発生するのです。その純粋な基盤を中心にして、熱意をどのくらい追求するのか、どのくらい必要とするのかということによって発生するのです。言い換えれば、どのくらい思慕し、どのくらい欽慕し、私自身がその無限な熱意の主体として現われ得るのかが問題になるのです。そこには慕わしさが先立たなければならず、切実さが先立たなければならないのです。切実さがあるその裏面には、必ず熱意があるという事実を私たちは考えなければなりません。


第5章:牧会者と食口指導
3伝道隊員がもたなければならない姿勢

 皆さんは、「生きた人間」哲学を探求しなければなりません。いつも、私がどうすればあの人を、先生に、あるいは皆さんに導くことができるかを考えるのです。その人たちが、皆さんに引っ張られるようにするのです。このようにするためのただ一つの方法がありますが、先生は、その方法を知っています。それは、「他の人をあがめる」という精神です。人間には自分に利益になることがある時には、いつでもその方向に行こうとする本性があります。

 皆さんの接触している人が利益を受け、皆さんが与えれば、皆さんは、自然に他の一人を導けます。もし、皆さんがその相手から、ある利益を受けようとすれば、障害が生じるようになります。皆さんがある人をあがめれば、皆さんは彼と近くなるのです。このような方法を通じて、皆さんは、すべてのことを教えていけます。伝道は、自分のためのものではないという、固い信念をもたなければなりません。問題は、皆さんが一人の個人を救うために、彼にどれほどのエネルギーを投入でき、彼の心を動かすためにどれほど与えられるか、ということです。それが、私たちの活動の核心です。

 大衆に対して、痛哭するように訴える心情に駆られなければなりません。人に会えば、私の喉から血を吐いても、一人を伝道するために、それをしなければならないというのです。痛哭して涙を流しながら、一人を伝道するために訴えてこなければなりません。

 まず地域に帰れば、その地域を伝道するために、どうしなければならないのでしょうか。この世界は、サタン世界であり、この地域は、今まで怨讐が住んできた地域であることを考える時に、そこに怨讐があがめ得る代表者とは誰かを知らなければなりません。人としては、どういう人であり、地としてはどういう地であるかを知らなければなりません。では、私がそのような基盤を立てて、「どこの誰を屈服させるまで、どこの誰をみ旨に復帰させるまで、私は決意する。ある地域を復帰する時まで決意する。今日、復帰歴史というのは、人を復帰し万物を復帰しなければならないので、サタン圏の人の中に、有名な地方有志なら誰々を復帰する。どの地域を復帰する」、そのようにして祈祷するのです。




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